物欲は爆発だ

アラサー独身男が徒然なるままに書き殴ります。

【読書メモ vol.1】少数言語としての手話(東京大学出版)

『手話はとはどんな言語なのか。音性言語とはまったく別の感覚を使った言語を持つ人々の生活は、文化は、思考は、脳は、どのようになっているのだろうか。そして社会的にのみならず生理的に少数であるろう者はどのような言語・文化を生み出してきたのか。国際社会ではどういう意味をもつのか。ろう文化や手話は今後どうなっていくのか。*1』等、手話に関する研究結果が詰め込まれている。

紹介されている研究等はどれも目から鱗で、いかに私が手話、そしてろう者に対して無知であったか、それゆえの偏見を持っていたか自省させられた。書きたいことが多すぎて取っ散らかりかねないので、日本における手話事情についてのみ紹介する。

日本における手話

日本において、手話と称されるものは2種類ある。1つは「日本手話」という伝統的な手話であり、もう1つは「日本語対応手話」という、音声言語である日本語を、手指で訳したものである。聴者である私は後者の方が覚えやすいと直感的に感じるが、実際に中途失聴者の多くは日本語対応手話を習得していく。

ただ、日本手話と日本語対応手話は語順等の文法が大きく異なること(手話で表現しやすいような語順になっている等)に加えて、日本手話は視線や表情といった非手指言語を駆使してコミュニケーションを取る。それゆえ、能率性の観点で言えば、音声言語と伝統的な手話はなんら変わらないというのが驚きだ。

しかし、日本では手話が少数言語として十分に認知されておらず、日本手話は母語として扱われていない。ろう者の多くが聴者の家庭に生まれるという特殊な事情から、学校教育の場での手話習得が重要となるが、現状では口話法教育*2が主流のようだ。日本語を習得できたろう者にとっては日本語対応手話の方が都合がよく、結果として、日本語対応手話の方が優れていると考えるろう者も少なくないという皮肉な事態が生まれている。

感想とか

手話に対して無知であるがあまり、「聞こえない」という身体的マイノリティーを無意識に言語にまで拡張してしまい、「手話は音性言語より利便性に劣る」と偏見を持っていたことを痛切に感じさせられた。正に『マジョリティーはマイノリティーとの関係を無意識に上下で見てい*3』たのである。

一方で、本著で幾度となく書かれている通り、ろう者の親もろう者である確率は低く、家族の中でもマイノリティーになってしまう特徴がある。本著を読んだことで、伝統的な手話は紛れもなく言語であり、ろう者は手話を母語として教育を受けるべきであることは頭では理解した。しかしながら、仮に自分の子どもが先天的な聴覚障害を持っていた場合、人工内耳や補聴器等を装着させて、少しでも聴者のような生活を送ってほしいと、傲慢とも捉えかねない、一方的な願いを反射的に押し付けてしまわないだろうか。ここは第5章に『音のない世界で』というアメリカのドキュメント作品が取り上げられており、読者の多くは「そうはいっても」と淀んでしまうであろう。

本著は紹介されている事例の面白さもさることながら、何より著者が中立的なスタンスを保ち続けているため、思考の幅を与えてくれるし、それゆえの『はじめに』や『おわりに』で述べられている著者の意見が私に突き刺さった。手話への理解を深めるだけでなく、普段何気なく使っている音声言語についても客観的に振り返る機会にもなる好著である。惜しむらくは、絶版になっているからか、書店では手に入らないことであろうか。

*1:本著はじめにiiiより引用

*2:相手の唇の形や動きを見て話す内容を理解し、同時に自ら喋ることができるような発声訓練を行う教育方法

*3:本著p.194より引用